バケツの水を引っくり返したような、激しい雨の音で目が覚めた。
カーテンを捲らなくてもわかる。まだ夜明け前だ。俺はベッドの上に一人。
隣の空間に手を伸ばす。シーツは冷たい。皆守の残した体温がない。
「こんな時間に……どこ行ったんだよ」
つぶやく。が、答えは知っている。
恩師の墓参り。
聞こえがいい響きになった。苦笑する。皆守はきっと、今でもこう思っている。
自分が殺した女の墓参り。
昨夜は何も食べていない。なのに胸焼けがした。吐き気も少しだけある。日ごろのオーバーワークが祟ってる。しかし起きられないほどじゃない。
キッチンへ歩いていって、冷蔵庫を空ける。牛乳しかなかったので、それをパックのままで飲む。皆守が砂糖を入れて、温めてくれたのが飲みたいなと思った。あれほど優しい味がするものを、他に俺は知らない。
と、キーが鍵穴に差し込まれる音がする。ガチャッと扉が開く。
俺は壁にかかってある時計を見た。5時。この薄暗さは夜明け前だと思っていたけど、実は夕方であったのかもしれない。ここのところずっと、遺跡に潜っていたので時間の感覚が死滅している。寝すぎという範疇を超えている。
「おかえり」
リビングへ入ってきた皆守を笑顔で向かえる。皆守は真っ黒なスーツに、真っ白なシャツとシルバーのネクタイ姿だ。
喪服ってそそるよな、と不謹慎な言葉を飲み込む。牛乳よりも嚥下しやすい台詞だった。
「雨、大丈夫だった?」
皆守は、それが俺じゃなきゃ気づかないくらいの角度で頷く。胡乱な眼をしている。この時期はいつもそうだ。毎年この日はいつだってそうだ。
ダークグリーンのソファに皆守は座る。ネクタイが大嫌いで製薬会社の研究員になったのに、なのに首元を緩めようともしない。厳粛な姿勢に鳥肌が立つ。きっといい意味じゃない粟立ちだ。
「濡れてるなあ。シャワー浴びたほうがいいよ。風邪ひく」
さっきから俺ばっかりしゃべっている。ラバトリーからタオルを持ってきて、ばさりと皆守の頭の上に被せる。
「風邪ひく」
二度目だ。しかし、皆守は億劫そうにタオルを手に持って、そしてそれだけだった。近づいて気づくが、ラベンダーの匂いが雨の匂いと混ざって、こいつの周りは空気が重たくなっている。ラベンダーはアロマパイプの香りじゃない。墓へ供えた花束の香りだろう。
匂いが体臭になってしまうくらい、その花束を抱いてたのか。俺は堪らなくなる。
「やっぱり、冷たい」
ソファの上に乗り上げて、皆守の頬を撫でる。髪から水滴が流れている。それを指で拭う。俺の手は寝起きで熱かった。
きっと身体だって熱い筈だ。顔色が真っ白で、主にモノトーンで構成されてる皆守の姿を掻き抱いた。
皆守は幾つになっても静謐で綺麗だと思った。繊細なものは壊れやすい。脆いものは愛情に溢れてるってのはこの世の理だ。曲げられない。
――端的な話をしようか。
俺はね、皆守。六年経ってもお前の中に傷跡を残している、その女教師のことが憎いよ。愛情は尊いけど、同時に人を醜くするよな。会ったこともない人を、俺は恨んでいる。不思議な話だなって思うよ。
天香の生徒会の連中はさ、何も大量殺人をしてたって訳じゃないだろ。遺跡に近づく奴らを生きたまま封じて墓地へ埋葬していた。遺跡を開放する気がなかったから、ずっと封じてるつもりだったんだから、つまりそれは殺したも同然の処置だって思ってたんだろうけど。結果論だ。結果で語れば、遺跡は解き放たれたんだから行方不明者たちは生き返った。何の問題もない。結果オーライだ。
でも、皆守の教師だったラベンダーの匂いがする女性だけは違う。だって、墓守に処罰されることじゃなく、自ら死を選んだ。だから生き返らない。お前はそれを自分のせいだって責めてる。でもそうか?本当にそうか?目の前で死なれたお前だって被害者だろ。
人を救うのは命を差し出すことじゃないだろ。自分の命と引き換えに誰かを変えるなんてそんなの――卑怯だろ。
自殺はどこまでいっても自殺なんだ。勝手に死んだ女のことで、お前に傷がつくのが俺は耐えられない。俺はお前の為なら、会った事のない故人をここまで悪し様に言える。非人道的な一面なんか、誰にだってある。
毎年、毎年飲み込む台詞は喉に何度も引っかかる。六年経っても言えないことはある。言わない努力だって愛情だと思っている。
皆守の中には――というか、誰の中にだって心の部屋は無限にある。恩師の部屋が心の大半を占めている時期、俺は酷く苛立つ。……わかってる嫉妬だ。皆守が
服を慎重に選ぶのも、雨に打たれるのも気にしないくらい想えるのも、花束をささげる相手だって、俺だけでいて欲しいんだ。
皆守のこめかみにキスをして、耳の後ろへ顔を寄せた。清潔なスーツの裾からゆっくりと手を入れる。白いシャツに俺の形に影絵が出来る。まるで染め上げてるみたいだ。ぐっと身体を押される。やんわりとしつつ、強固な意志を感じる抵抗。
「……今日は、無理だ」
ようやく皆守が発した台詞は拒絶の言葉だった。今日は――命日は、無理だ。毎年のことだ。
――今日だけじゃないだろ。これから何週間も無理なんだろ。
俺は言いたいことを飲み込んでばかりだ。腹の底には良くない感情が溜まりこんでいく。でも、時間に濾過されたらそれさえも透明な想いに変わる気がする。だから俺は何も言わない。ただじっと待つ。濁った感情が解きほぐされていくのをずっと待つ。
「わかってる。でも、服はちゃんと着替えような。風邪ひく」
吐きたい毒が滲まないように、優しい声音を作り上げる。水気のある髪を撫でている間、ようやく皆守と眼が合う。
皆守は眉根を寄せた。嫌気を含んだ嘆息。
「……気を使わせてるのはわかってる。お前が嫌なら、……嫌じゃないわけないよな。自分だって嫌になってんだ――
しばらく、俺は違うとこに……」
「俺はお前のそばを離れない」
皆守の細い身体をぎゅう、と抱く。このやり取りも毎年のことだ。皆守も、俺も。儀式のようにこれを繰り返す。
「皆守のそばを離れない」
死んで皆守を縛り付けた女に対するあてつけのように、俺は繰り返す。
「皆守のそばを離れない」
三度繰り返したらそれが呪文になって、内容が真実になるように――俺は心を込めて繰り返す。
「お前が俺から離れたくなっても、俺のことを疎ましくなっても離れないよ。離れてやらない」
すぐ横に皆守の顔があって、きつくきつく抱いてるから俺の熱が移って皆守の身体はどんどん熱くなる。生きてる奴より大事なものなんか、ないんだよ皆守。俺は泣きたくなる。
ハハ、と皆守は屈託なく笑った。
「まるで脅されてるみたいだな」
「……そ、脅迫してんの。だから早く屈して」
皆守が腕の中で、「とっくに屈してる」とささやく。皆守は弱くて綺麗で、優しくて強い。俺は皆守を抱いたまま、強くなる雨音を聴き続ける。
死ぬ覚悟よりも毎日隣に居る覚悟のほうが困難で美しいのだと、信じることは絶対にやめない。