膝枕



「よく考えたら俺って、皆守が号泣してるとこ見たことないなって」

ローテーブルの上にDVDケースをそっと置く。忠犬ハチ公像の原形となった名作映画をハリウッドでリメイクした作品。アメリカの街並みに秋田犬が溶け込んでいてキュートだとかなんとか。見たことないが内容は有名だ。飼い主が死んだ後も、死んだことを理解できずに駅まで迎えに行って、二度と現れることのない飼い主をじっと待つ忠犬。

「で、感動系の映画を見ようってのか……浅はかだな、九龍」
「たしかに俺は無為無策で無謀を人生の真髄にしているけど……俺の綿密で緻密なプロジェクトを浅はかとか言われちゃうとショックだよ」
「俺はこういう、動物や子供を使って涙を誘うやつは好きじゃない」

きっぱりと言い切られる。マジかよ。それじゃあ俺の計画は短慮としか言いようがない。うちの犬を見に来ない?って好きな子を家まで誘い出そうとしたら、その子が無類の猫好き犬嫌いだった、ぐらいの失策だ。
興味がないからお前だけで観ろ、と洗い物をしようと席を立つ皆守のセーターを掴む。客観的に見なくても必死だ。

「ロゼッタの受付の人に借りちゃったの!借りたからには観なきゃだろ?一緒に観よう甲太郎!」
「……おい。その受付の子ってのは女か?」
「え、……はい」

皆守の中に数多仕掛けられている地雷を踏みつけたらしい。地雷処理には高度な技術と経験が必要とされる。

「息子が中学受験でなにかとお金がかかって大変っ、が口癖の受付のスズキさん」

俺は何とか一言で受付の女性が妙齢を過ぎていること、既婚者であることを説明してみせる。こういう時は、余計な事柄は一切告げないほうが利口だ。
たとえばスズキさんの旦那さんは亡くなってるとか、何故か俺にだけよく食べ物をくれるとか。って、断じて疚しいこともないのに弁解だけは上手くなっていく。
皆守の厄介なところは妬いても疑っても面と向かって言ってこないところだ。ヒステリックに怒鳴られるほうが、黙って落ち込まれるよりも百万倍いい。皆守の頭の中では俺は世紀のモテ男になってそうだ。光栄なんだか厄介なんだか。

「……別に聞いてないがな」

皆守はそう言って、大人しくソファに逆戻りした。
俺はホッとする。逃げられないように、寝転がって皆守の膝に頭をのせる。後頭部が文鎮になった気分だ。

「おい、これじゃあ俺が寝れないだろ」
「そうさせないためだってば」

まだ不満なオーラを放つ皆守を無視して、俺はリモコンの再生ボタンを押した。


風呂に入りたいんだが、だとか洗い物が、だとかぶちぶち文句を言っていた皆守も、物語が進むにつれて集中していったようで、

「くそ……待たせるとか、そんな芸を仕込むなよ」

と、リチャード・ギアに向けての文句へ変わっていった。かく言う俺も、どうせストーリーは知っている。と、舐めてかかっていたが流石にハチの名演に見入っていた。主演男優賞ならぬ主演動物賞をあげたくなるくらい、ハチの教授を見る眼は無垢で一途で献身的だ。ハチの視点になると画面から色合いが消えて撮り方が上手いとか、カメラワークが優れているとかそんな無粋な言い方はよくない。
素直に教授とハチの絆の深さに浸りたい映画だ。
白黒の世界へ何度か画面が移り変わった瞬間――俺はもともと、犬が好きだったこと、というか――昔は隣に犬が居る生活をしていたことを思い出した。
それは無理やり記憶を邂逅させられる、唐突なフラッシュバックだった。

生まれた時から一緒だった勇敢なコリー。俺にとってコリーは名犬ラッシーの主人公でもなく、愛玩動物でもなく、生まれた時から一緒に居る兄弟で親友だった。ひどく賢い犬で、俺が十二の時に死ぬまで、終ぞ知性では適わなかったように思う。
十二の春のことだった。年をとってすっかり大人しくなった犬の世話をするより、俺は近所の友達と探索ごっこをして遊ぶことのほうが楽しくなっていた。しだいに弱っていった、という前兆もなかったように思う。俺が気づかなかっただけかもしれないが。ある日学校から帰ると父と母がぐったりとした愛犬を車に乗せていたところだった。慌てて、動物病院に行くという両親に連れ立った。この時初めて、自分の身の回りに本当は絶えずあるはずの『死』を痛烈に意識した。
後部座席で、俺の親友は荒い息だった。名前は俺の『九龍』からとって『ロン』。「ロンッ、ロン――」何度名前を呼んでも、かすかに耳が動くだけ。ロンの役目は俺の子守で、俺が話すことはどんなことだって聞き逃さなかったのに。俺が呼んで起き上がらないことなんか、なかったのに。
その時は郊外に住んでいて、最寄の動物病院までは三十分以上かかった。ロンは途中でいきなり立ち上がり、座席の下に潜り込んで前足を動かした。あの時はそれが、どんなことを意味するのかわかっていなかった。元気になったのかなと純粋に喜んだ。けど、今ならわかる。あれは死期を悟って、自分の亡骸を隠す場所を探していたんだ。結局シートの下を掘り起こせるはずもなく、ロンはそのまま冷たくなった。ロンが死んで、俺は泣いた。ロンが相棒だったことを思い出した。泣いたけど、当たり前だけど悲しみはずっとは続かなかった。どうでもいいことを人は忘れていくんだと思っていた。だけど、本当は大事なことほど忘れている。二度と動物は飼わないと誓ったことは覚えていたけど、そのきっかけは忘れていた。


「おい、九龍」

気が付けばエンドロールが流れていた。寝ていたわけではないが、画面じゃなく過去を見ていた。突然現実に引き戻されハッとする。頭の上に置かれていた皆守の指が頬まで降りてくる。

「ッ――、オイッ。泣いてるのか?」

言われて初めて、俺から伝った涙が皆守のジーンズを濃くするほど溢れていることに気づいた。「うわ、」と、何はともかく驚く。
慌ててごしごしと眼を擦った。

「落ち着け、大丈夫だ……九ちゃん。さっきの話はフィクションだからな……あのハチだって、カットがかかれば起き上がって監督に餌を貰っているだろうし、リチャードも死んでないからおもいっきり撫でられてるさ」

皆守はかなり狼狽しているらしく、声の調子が上がったり下がったりしている。子供時代に飼っていた犬が死んだことを思い出して泣けてきたんだ、と正直に告げようと思ったが、皆守のなだめ方があんまりにも愛に溢れているから、ついつい黙ってしまう。

「リチャード・ギアは大の愛犬家らしいぞ?安心しろ。さぞ撮影の合間もあいつは可愛がられていたさ。つうか、そもそも死んでないからなあの犬は」
「……そうだよな」

皆守はお前こそ落ち着けよと言いたくなる位うろたえていて、男でも涙って武器になるんだなあと変な感動を覚える。

「優しいなあ皆守は……」

膝の上に頭を乗せたまま、腕を伸ばして皆守の頭を抱き寄せる。窮屈な抱擁になったが構わずに触れるだけのキスをした。これは腹筋のトレーニングになるな。

「今の相棒は皆守だもんな」
「……なんの話だ?」
「こっちの話」

俺と皆守の話は噛み合っていない。それがちょっと愉快だ。もうとっくに悲しみは去っていた。なのに水みたいな涙が止まらない。涙腺が緩んで馬鹿になってしまっている。

「いいから、……早く泣き止めよ。お前がそこまで犬好きだったなんて初耳だぞ……」

世話焼きな皆守は、俺を泣き止ませることが使命だとばかりに、ゆっくりと頭を撫でてくる。

「甲ちゃん」

膝の上から見上げる皆守の顔には困惑しか広がっていない。俺のために困ってくれている。この掌は俺のものだと、今なら厚かましく言い放てる。

「俺の夢って遺跡で死ぬことだったんだけど……やっぱり変更。皆守の膝の上で死ぬ」
「はあ?」

皆守は意味がまるでわかっていない。それもそうだ。少しも説明していない。甲太郎の膝枕があまりにも落ち着くので適当に言ったことだったけど。言った後で、悪くない目標だと気づいた。どころか最高に良い死に方だ。
強引に映画と結びつける。

「俺が見えないところで死んだら、皆守はいつまでも待っちゃいそうだし」
「……人をハチみたいに言うな……」

馬鹿野郎と言ってそっぽを向かれる。のみならず、皆守は強引に立ち上がり、俺をごとりと鈍い音がするくらい勢いよくラグの上に落とした。

「縁起でもない話はするな、葉佩」

久しぶりに苗字で呼ばれる。すこぶる機嫌が悪くなった皆守の背中を床の上から見送った。皆守をハチみたいに言ったからか、俺の夢は遺跡で死ぬことだったんだけどの台詞か、それとも話題そのものか。どれかが皆守の逆鱗に触ってしまったらしい。
俺はむくりと起き上がる。涙はやっと、乾いて痕になっていた。

「洗い物は俺があとでするからさー」

だから一緒に風呂に入ろうよ。猫の瞳の色の様に機嫌が目まぐるしく変わる皆守に、今度は俺があたふたさせられる番だった。






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