最近の葉佩は、探索にバディを連れていくのを嫌がる。遺跡エリアの難易度が上がって、無傷で帰ることが難しくなったからだろうと俺は推理する。
とっくに鬼籍に入った伝説のトレジャーハンター(らしい。葉佩から耳にたこができるほど聞かされたので詳しくなってしまった)ロックフォードではないが、あいつは『自分のことを最後に考える男』だ。
危険に立ち向かうとき、バディの存在が重荷になるのかもしれない。一度七瀬と雛川と潜った際に心拍数が危険値まで低下する怪我を負って、心配をかけたことを大層悔やんでるという噂もある。でも、それでも――全員葉佩の傍に居たがった。葉佩に必要とされたがった。あいつの役に立った瞬間の悦びは、実際に笑顔を向けられた人間にしかわからない種類のものだ。
達成感、恍惚、自分への自信がじわじわと染み渡るような感覚。それらにはひどく中毒性があった。
だから、葉佩に「やっぱ俺だけじゃ限界っ。皆守たすけてっ」と頼られて俺はほんの少しだけ舞い上がっていた。性格の悪い話だが、誘われなかった連中に対して優越感も覚えた。
最近はこいつの周りにも人が増え、石研部長、ガスマスクに侍に、エジプト人。昼休みにも葉佩の周りに人だかりができ、二人でのんびりとサボる楽しみも遠のきがちだった。寂しい訳ではないが、なんとなく癪に障る思いはあった。
しかし、この様だ。
ぜえはあ、と荒い息をして冷たい石碑にもたれかかる。
体中熱くて仕方がないのに、背中を悪寒が走り抜ける。咥内には熱い息が溜まって瞼の裏は燃えるようだ。はじめに寒いと感じたのは、降雪のエリアを抜けている最中のことだった。どうせ環境のせいだと思い、次には風邪だと思った。
急激に悪くなるはずがないと思って黙って進んだが、すぐに気づいた。これは風邪じゃない。――というか体に無理矢理わからされた。唇をぎゅっと噛み締める。気を抜くと、「九龍」とつぶやきそうになる。あいつの掌や首筋に触れたくなっている。こんな初期症状を伴う風邪なんて聞いたことがない。
今夜は新しい扉は開いていない。お偉方から受けた依頼のものを手に入れるための探索だった。なんだ、と肩を落としはしたものの、今までの全ダンジョンを回ると言われ閉口した。運動神経がいい自負はあるが、持久力はあまりない。根性や熱血とは無縁だが、葉佩に懇願されるとどうしてか頷いてしまう。生徒会への忠誠心を、二年ぶりに発揮してるのとも違う。
純粋に気になるんだ。この男のことが。葉佩が昨日はどこでどうした、こうしたという情報を違う奴から聞かされることが耐え難い。
「皆守、疲れたのか?」
葉佩がくるりと振り返る。銃をホルスターに収めた――様になっている動きだ。
「魂の井戸まではまだちょっとあるから、我慢し……」
石碑にもたれ掛かって、顔を伏せている俺の顎に葉佩の指。ああ、こいつの指だ。そう思うと震えるくらいに嬉しくなった。飼い主に頭を撫でられているときの犬の気持ちは、こんな感じだろうか。
「って、皆守すっごい熱いじゃんか。熱あるなら言えよっ」
「……ちがう」
思いきり首を振ったつもりが、実際には前髪がかすかに揺れるくらいの動きになった。
「違わないだろ、待ってろ。すぐに抗生物質取ってくるから」
「待て」
迅速に行動しようとする、葉佩の制服の裾を掴む。たったそれだけのことでも、今の俺には重労働だ。
「行くな、ここに居てくれ」
視界は自然に潤む。血液が沸いて、骨まで溶かされそうに熱いことも、ぞくぞくとする寒気も堪えることができる。
ただ、葉佩がこの場から立ち去ること、見えない場所へ行ってしまうことは我慢ができない。もしそうなれば、寂寥感で死んでしまうと本気で思える。
「でも、それじゃあ薬が……今は何も持ってないんだ。五分くらいで戻るから」
な?と、子供に言って聞かせるような口調。俺はいっそ、聞き分けのない子供になってしまったかのように葉佩にしがみつく。不意打ちになったらしく、葉佩は突然の体重移動に対応できず後ろに尻餅をついた。ここは地下とは思えない、木々が鬱蒼と茂るエリアだ。葉佩の制服は土で汚れたかもしれない。
「……くな、行くな」
それしか思えず、それしか言えなかった。今こいつの腕が離れれば、真っ逆さまに奈落の底まで落下する。そんな気がして仕方がない。
「皆守、お前さあ……変だぞ」
そんなことはわかっている。わかっているが、どうしようもないんだ。
「九龍、くろ、」
うわごとのような、覚束ない口調になる。「ん?」と聞き返してくる葉佩の声は優しい。
「今お前が居なくなったら、……多分俺は、生きていけない」
本気の本気で危惧していることを口の端に乗せる。葉佩は凍り付いたように固まり、そして長々と息を吐いた。
「い、今のあり得ない台詞でようやく気づいたけど。皆守、お前……変すぎる。正気じゃないな」
どこから狂ってるのかわからないが、とにかく今はそれが本心だった。否定されてもどうしようもない。体中熱くて仕方が無くて、背中を汗が伝っているのが解る。その熱気が言わせている気はするが、深いミルク色の霧がかかったような頭の中じゃ上手く考えられない。
「トトが居たエリア通ったときから、だんだん皆守の歩きが遅くって……ああ、そん時俺、皆守に桔梗香飲むように勧めたよな?蝶の迷宮からゲットしてきた、バディ回復用のアイテム」
しかし、葉佩も焦ったように汗を額に浮かべている。俺はただでさえ浅いところしかいかない思考力を総動員して、そんなやり取りをしたことを思い出した。ついさっきのことが数年前より遠くに感じる。
「ああ、飲んだな……」
「何色の?」
「……青い液体だった、な」
およそ口に含んでいい色ではなかった。しかしそれくらいしか小瓶はベストに入ってなかったのだ。質問に答えるだけのことが酷くだるい。最後は荒く、病的な呼吸になった。
歯痛を堪えるような顔を葉佩がする。
「えーと、えーと、ごめん。皆守。それって、双樹に頼まれて作ってた媚薬だ。入れ間違えてた……お前、間違って飲んだんだよ」
「……ふ」
ざけんな、と続けようとしたが言葉にならなかった。だらんとした身体では大声も出せない。それに、そんなものをベストに入れておいた葉佩に対する怒りも、実際のところそれほど持ち得なかった。今自分がおかしくなっていることはわかるが、その原因の一端を担ってる葉佩に現時点では浮つく気持ちしか抱けない。ふざけるな、という怒りが一筋浮かんだ後、濁流のような勢いのある愛しいという気持ちが悪感情を塗り替えていく。流星のような早さで赫きだ。
「皆守、ごめん。マジごめん。苦しいよな?……まだ媚薬は試作品だったからさあ、効果はみてなかったんだ」
と、葉佩が顔を近づけてくる。
「吐けそうか?お前がよかったらだけど、俺が指突っ込んで吐かせてやってもいいけど……」
瞳の奥を覗き込んでくる。星でも背負ってるのかというくらいに輝いて見える。そうしたいと思うよりも早くからだが動いて、葉佩の頭を引っ掴んでいた。そのまま自分のほうへ引き寄せる。
勢いだけで唇を被せたら、ンンッと、驚いた葉佩の息が漏れた。
「なあ、九龍、好きだ……もうずっと、ずっと前から好きだった」
口づけたら止まらなくなって、そのまま胸に蟠っている気持ちを告げる。告げたところで、まだ全然足りない気がした。自分の脳内に語彙が決定的に足りないようなもどかしさ。好き以上に何か、もっと最上級な言葉があるんじゃないかと惑う。感情は間違いがなく「好き」以上のものであるのに、言葉は実物大ほどの威力しかないのかと寂しくなる。
葉佩はしかし、心底残念そうな顔を浮かべている。
「キスとかさあ、正気の時にしてくれよ……、って、俺のせいだけどさあ……それにずっと前からって、ちょっと媚薬飲んだ十分前からだろうが……まあ、薬で飛んじゃってる奴にツッコミしてる場合じゃないな」
疲れたような嘆息をひとつ零して、葉佩が腰を浮かせようとする。俺は腕に力を込めた、
「どこに行くんだ?」
「だから、救急キット取ってくるんだって。まだ先には敵がいるから、お前はここに」
「……行くな」
「あー、もうッ」
だんだんと意味のあることが考えられなくなっている。葉佩が何か、苛立ったように頭を掻いた。
「埒があかない。俺は行くからなっ」
「俺のことが嫌いで、か?」
「好きだよ。馬鹿言うなッ」
怒鳴り声は焦れたニュアンスで、しかし声音と行動はそれとは大きく違った。きつく抱きしめられて、頭を抱かれる。
「平静な時に言いたかったってのに……好きに決まってんだろ」
疑いようもない抱擁で探りようのない言葉であったのに、満たされたのはほんの数秒だった。貪欲になっている心中がじくじくと飢えに虫食まれるのはあっという間だ。もっと何かが欲しくなる。
「だったら、」
葉佩の右頬に掌を置く。
「だったら……」
続きを言えない理由は幾らもあったが、決定的なことはその先を、葉佩に決めて貰いたかったからだ。
「……俺って忍耐力あるほうだと思ってたんだけどな」
そう言って唇を合わされたことに俺は心底満足した。
自分がひどく悪い人間、もっと言えば犯罪者になったような気持ちで、皆守の荒い息を聞いている。薬で正体を無くしている人物のズボンと下着を膝まで引き下ろし、性器を扱いているんだから、なったようなじゃなく間違いなく犯罪者だ。
「ん、ン――九龍、」
けれどどんな犯罪者にだって弁解の余地は残されている。首を振って、甘く喘ぐ皆守を前に手を出さずにいられる強靭な精神なんて、十代で持ち合わせられる気がしない。
木の幹を背に皆守を立たせて、膝が崩れそうな身体を片腕で抱いて片手で刺激を与え続けている。まるで皆守がすべてを俺に預けているって体勢だ。ここは日光の射し込まない墓地の地下のはずなのに、緑の匂いにまるで昼間の屋外だと錯覚しそうになる。環境のせいで開放的になってるなんて言い訳はしない。
言い訳をするならば何よりも適任なことがある。
ずっと好きだった相手に誘われたんだ――拒めるはずがない。
はじめに違和感を覚えたのは爆弾騒ぎの時だ。敬愛するロックフォードに憧れ女子供を守るのは男の努めをモットーに生きてきたのに、咄嗟にかばっていたのは奈々子じゃなくて皆守だった。皆守も相当驚いていたけど、俺だって驚いた。その後も違和感は拭われるばかりか増すばかりで、ラーメンが食べたかったのに皆守のがっかりした顔を見たくないが為にカレーをマミーズで頼んでしまったり、天香中の十人十色な可愛い女の子とアドレスを交換してるってのに皆守のメールだけ保護してしまったり、皆守の姿がないときはまっさきに屋上、次に保健室へ出向いてしまう。まるで訓練された犬のようだ。
それがなんでか、俺はまったくわかっていなかった。わからないままでいれば、それはそれで幸せだっただろうけど。
ああなんだ、恋か。と自覚したのはつい最近、訓練のつもりで遺跡に潜って死にかけた時だ。
朦朧とする意識と、混濁していく視界の中で考えたのは皆守のことだった。
もう一度皆守に会いたいという強烈な願いだった。
あの瞬間、俺の心には皆守のことしかなかった。
「く、ろッ」
「なに、甲太郎」
間違いなく快楽に染まっていることは手の中のものが証明しているのに、眉根を寄せて荒く息をつく皆守は苦しげにも見えて罪悪感が湧く。皆守の発言も平常時の意識が言わせているわけではないと解っているだけに尚更だ。だからこそ強すぎる快感という苦痛は早く取り除いてやりたい――って、どう転んでも自分の行為を正当化しようとする口上だな。
射精を促せるように強く握る。は、は、と過呼吸気味になっている皆守の口を塞ぐ。人間の唇が柔らかいのは、遡れば猿の頃から、こんなキスをするためになんじゃないかと真剣に考えるほど柔らかくて気持ちがいい。
「……俺に、こんなこと、言う資格は、ないが、」
文節ごとに区切るように、皆守は息も絶え絶えに何か伝えようとしてくる。
「え?」
真剣な瞳が長めな前髪から覗いている。眠そうであるのに瞳自体は大きくて、垂れ目なのに意思の強さが窺える。皆守は不思議な奴だと思う。はじめて出会った時から、目が離せなくなった。
「本当に、おまえが、好きなんだ」
「……うん。ありがとうな、皆守」
「嘘じゃない」
「……ああ、そうだな」
これは媚薬の効果だ。本心じゃない。わかっていても泣きそうになるくらいに嬉しいし、心臓がぎゅっと収縮する。俺もだよ、と言って舌を差し込む。これ以上の愛の言葉は、皆守の心からの言葉じゃないぶん切なくなる。息苦しさに心臓がもちそうにない。
「ふっ、ぅ、――ンン」
皆守が掌の中で達するまではそれからいくらもかからなかった。だけど射精の感覚は異常に長くて、これも媚薬のせいだろうなと冷静な頭で判断する。尿道を精液がゆっくりと通過するせいで絶頂感も長いのだろう、腕の中で震える皆守を抱いてるときは確かに幸せを感じていた。
急速に皆守の身体が脱力して、そのまま支えきれずに二人して膝をついてしまう。まるでエネルギーが0になるまで遊んだ子供のように、急激な眠気に襲われている様子の皆守の服を使っていないほうの手で慌てて整える。「九龍」とかすかに呼ばれたが、それは寝言であったかもしれない。
きっと、皆守は明日目覚めたときに今夜のことは覚えていないだろう。高熱の時に見た悪夢を誰も覚えていないように。
「大丈夫だから」
なにが、かはわからないけどそう呟く。皆守の声が不安げであったからかもしれない。皆守はそのまま寝入ってしまう。こいつはウェイトがないから、担いで帰るくらいはわけない。
『九龍』と熱っぽく呼ばれた名前が鼓膜の奥でこだましている。
ずっと好きだった、という台詞を反芻する。
媚薬の効果だということはわかっている。虚しい、毒々しい紫色な夢だった。現実の俺と皆守の関係は紛う事なき親友で、まさか恋仲になれるとも思えない健全な付き合いだ。俺も好きだよ、なんて本当は言えない。オチはわかりきっている。秘宝を見つければすぐに天香を立ち去ることになっている俺には時間がない、きっと最後の最後に気持ちを告げることになる。皆守は俺には優しいから、気持ちだけは貰っておいてくれるかもしれない。だけど俺が貰える同じ気持ちはない。それでいいと思っていたのに、一度覚えた幸福に味をしめそうになる。俺ってこんなに欲深かったんだ、と呆れる。
「……双樹が誰に媚薬使うつもりなのか知らないけど、こんなの使うなって言わなきゃな」
無理矢理相手に恋しさを植え付けた上での行為にはなんの意味もない。残るのは空しさと自己嫌悪だけだった。媚薬を飲ませたのはわざとじゃないけど、それでも酩酊状態みたいな人間をいいようにした事実は消えない。
好きだったんだ――は言い訳にならない。お互いに想い合わなきゃ触ることだって許されない。そのことを思い知らされる。軽蔑されて嫌悪されるだろうが本当のことを話すべきか。ちらりと考える。けど、俺が皆守の立場だったら死んでも知らされたくないなと却下する。相手を思いやることと自分を守ることが繋がることもあると思う。
皆守の寝顔を見ていたら、ふいにあと何回こいつと一緒に遺跡に潜れるのかなという疑問が湧いた。
回答は希望に溢れるものになりそうになかった。すぐに思考を振り払う。
まださっきの、皆守の言葉だけを頭の中に流していたかった。
自分の荒れている唇を手の甲で触る。たとえ向こうは紛い物の気持ちだったにしても、皆守からキスをされたという事実は消滅しない。
「……皆守が明日も明後日もずっとずっと、隣にいる未来が欲しいな」
それは一介のトレジャーハンターの手には余る野望でも、それでもどうしても欲しがらずにはいられない。媚薬が見せた夢は完璧に出来過ぎていて、だからこそ悲しいくらいに残酷だった。