for ever wait to me


※葉佩が帰ってこなかったアンハッピーなお話



約束は心を雁字搦めにする。


陽気が暦に追いついたとばかりに暖かい風が吹いている。
俺は屋上でいつものアロマパイプを口に銜える。これはもう必要ないと人に諭され、自分でも手放せそうだと思ったが、結局金属の重みを口元は恋しがった。卒業式に間に合うように帰ってくる。そう誓った葉佩の言葉は嘘になった。
もう一度葉佩に会えば、今度こそこの香りを手放せる――そう信じている。でもそれはつまり、自力では無理だと、諦めてるってことだ。

卒業後も屋上に忍び込む術を身に付けた。敷地内に入る資格を得るのは簡単だった。マミーズで厨房の仕事を手伝うことにしたのだ。阿門に一言頼めば、その必要もなかっただろうが。さすがに学生という身分でなくなった以上、最低限、自分ひとりは食わせていかなければいけない。もう、学生服も着ていない。あんなに嫌だった、学生という中途半端な身分にも、過ぎ去ってみれば懐かしく――惜しく思うほどの愛着があった。

フェンスに背中を預けると、キィと錆付いた金属が軋む音がする。春休みに突入し、グラウンドからは運動部の連中の掛け声が響いている。休みの日までスポーツに身を投じるなど、酔狂でしかないと思っていた。でも、卒業してみてはじめて変化する気持ちもある。グラウンドをぐるぐると走らされる、無意味としか思えない行為のだるさ。サッカーのPKで、あさっての方向へ飛んだボール。何の価値もないはずの動きほど、その時には楽しいと感じていなかった行為ほど、やけに記憶に残っている。葉佩と過ごした時間は短い。それでも、三ヶ月だ。その間ずっと、昼夜問わず俺はあいつの隣に立ちつづけた。振り返り、取り出すのに苦労するほど、葉佩との記憶は少なくも薄くもない。
月日が流れても、ちっとも薄れない明度と彩度であいつは笑っている。

コンクリートの上に投げ出した携帯が点滅している。今朝見たときは、大和からメールが届いていた。『まだ待つのか?』の、簡潔な文面。非難の色も見て取れた。俺は呆れられることを承知で、『あと少しだけな』と返した。俺だって、一生葉佩を待っているつもりはない。それでも、他の連中のように潔くはなれない。

葉佩九龍は不思議な男だった。どこまでも愛想がよく、人の話を親身に聞き、誰のところにも顔をだし、人の好物を覚え、プレゼントし、表情は目まぐるしく動く。交わされた言葉はすべて打つように響いた。嘘やごまかしだらけの俺と違って、あいつの一言一句はどれもが本物に聞こえた。マメな男はモテる――を地でいくやつだった。ここだけの話でもなんでもないが、女共は全員あいつに惚れていたんじゃないかと思う。聖夜の頃には葉佩を取り巻く人間関係に不穏なものだってあった。今なら笑い話にしてやってもいい。何故なら、それを気にする奴はもういない。葉佩が去った後、爽やかな風が吹いた後のように、全員さっぱりとした顔つきだった。
どうやら本当にもてる奴というのは、誰にも恨まれずに立ち去る能力を持っているらしい。感傷で動けなくなった奴も居なければ、未練でぐずぐずに崩れた奴もいない。全員、葉佩を確かに好きだったんだろうが、ドロドロとした陰りの入り込まない感情は、正しく愛や恋ではなかったのかもしれない。透明な憧れに近い想いだけを残して、葉佩九龍は去っていった。見事な御仁だ、と真理野が言って全員が頷いた。頷けなかったのは俺だけだ。

あいつが去った後も、どうしようもなく
葉佩九龍に、捕らわれていたのは俺だけだった。
そしてその、あいつを待って一歩も進めていない唯一だということが
まるで俺は特別と示すようで嬉しくもあった。

ただ、フェンスに背を預け、何度もしたシミュレーションを繰り返す。

ギィ
ドアノブが回る。重い鉄の扉が開かれる。
葉佩がいっそ哀れなほど性急に、扉にタックルして飛び出してくる。アサルトベストも、ゴーグルも武器も携えたまま服は泥だらけで髪はぱさついている。まさか、その格好で飛行機に乗ってきたのか?と訊く俺に「ごめん、皆守ッ」と、葉佩は謝罪の言葉だけを繰り返す。埃っぽい体に体当たりされるように、抱きしめられる。「遅くなってごめんっ、約束守れなくてごめん、卒業式に必ずって、行ったのに」
会った瞬間、殴ってやろうと固めた拳はきっと、使い物にならない。それくらい、葉佩は耳に痛いくらいの声量で、ごめんなさいを繰り返す。もうそれはいい、と言えば。今度は謝罪が、待っててくれて有難うに代わる。
「ありがとう、ありがとう皆守。お礼でもお詫びでも、なんでもいいけど。今度は待ってて、なんて言わない。もう、一日だって離れない。一緒に行こう。ここ以外で、一緒に冒険しよう」葉佩はそういって、泣きながら俺の手を取る。俺は頷く。怒りも安堵も喜びも全能感も、一緒くたになってしまって、結局わけがわからなくなるだろう。何も考えられなくなって、ただただ頷くんだ。もうそれでいい、それしかない。葉佩が居ない場所を、俺は牢獄に変えてしまう。こいつの隣以外には遍く鉄格子が降りてしまう。待っている間にそれを、嫌というほど思い知らされた。一緒に居るしかない。一緒に居なければ一歩も動けなくなる。俺は他の奴とは違って、依存心の塊だ。そうしたのは葉佩で、これはもう、こいつにしかどうにもできない。いつの間にか、アロマパイプは床に落ちる。きっと、軽くなった口元が何かを恋しがる。それが何か、俺はわかっていても気づかない振りをする。後はもうきっと、お互いに。頭が痛くなるほど泣きじゃくるだろう。言ってやりたい台詞は嗚咽にしかならない。もう一度会えれば、今度は二度と離れないのだから。別にいいんだ。焦って伝えようとしなくても。泣き止んだ後に殴るなり、遅いと怒鳴ることなりすればいい。時間はまだ――

ギィ
空想にふける俺の目の前で、鉄扉が半分だけ開く。誰が来るか、俺はわかっていた。女の身で、この屋上の錆付いた扉は一気には開けない。

「皆守くん」

やってきた八千穂は、もうお団子頭をしていない。長い髪が屋上の風になびく。邪魔じゃないか、その髪。そう言うとこいつは怒る。白岐とおそろいで気に入っているらしい。制服を着なくなってから、別人のように思える瞬間が増えた。女は変わるな。と、しみじみと思わされる相手だ。

「……またここに居たの?」
「言っとくけど、サボりじゃないぜ。今日は客足もよくない……休憩時間だ。」
「知ってるよ。でも、暇さえあれば屋上に上がってるって。雛先生も、奈々子ちゃんも言ってた」
「俺くらいは、待っててやらないと。あいつが寂しがるだろ」
「皆守くんっ!」

八千穂がヒステリックな声を出す。ああ、こんな声も出せるようになったのだ。俺はぼんやりと紫煙の先の女を見据える。スーツ姿で、薄化粧もしている。たしか、就職活動をしているんだったか。

「もう三年だよ」

まだ三年だ。言い返したくなったが、八千穂の涙に『言い返す資格』を奪われる。泣くのは卑怯だ。泣かれては何も言えなくなる。でも、こいつを泣かせるようなことをしているのは俺だ。
三年――言葉としての実感しかない。毎日同じことを繰り返している俺には、一日がたまらなく長い代わりに、一年があっという間だ。

「ねえ、九ちゃんは……三年間も、皆守くんを放っておく人じゃないよ。連絡もしない、約束も平気で破るなんて、そんな……そんな人じゃないよ。連絡しないのは、きっと出来ないんだよ。会いに来れないのにも理由があるんだよ。皆守くんはわかってるんでしょう?本当はわかってるのに、私に言わせないでよ」
「……あいつは帰ってくると言った」
「皆守くん、いいかげん現実を見てよ」

八千穂は、涙に濡れた顔を上げる。俺はそれを、じっと見上げる。
ああ、八千穂は。俺の代わりに泣いているのか。そんな実感だけが湧く。

「夕薙くんね。トレジャーハンターになったんだって。それで、協会に問い合わせたって。九ちゃんのこと」

聞きたくない。そう思うが、遮る気力もなかった。ラベンダーの香りが、身体から力を奪っていく。

「三年前の探索対象の遺跡が崩壊して、九ちゃんも巻き込まれたって。それから行方不明で……トレジャーハンターが遺跡で消息を絶った場合、一年で死亡判定が下りるんだって」
「八千穂、もういい」
「もし九ちゃんが生きていたら」
「八千穂」
「皆守くんを、こんなに待たせるわけない。こんなに、追い詰めたりしない。絶対に、何があってもここに来たよ」

八千穂が言い切ったことに、俺は何一つ異論はなかった。わかっていることを並べられても、結局のところ――意味はない。取り残された俺には何もかもが空虚だった。空しく自嘲して笑う。体の内側ががらんどうになってしまっている。何も心に響かない。内臓や血や筋肉や、本来ならぎっしりと詰まっているはずのものは、どこに行ってしまったのか。

「……まったく、俺は何をしてるんだろうな」

八千穂を泣かせて、辛いことを言わせて苦しめて。大和だけじゃない、阿門も、お人好しばかりの元バディ達も頻繁にメールを寄越してくる。誰よりも女々しく、一人きりで傷ついて不幸の殻から出ようとしていない俺を、気遣う強さと優しさがある。他の奴が薄情なんでも、葉佩への思いが浅かった訳でもない。俺が、ただ単に弱いだけだ。

大和は崩れた遺跡を実際に見に行ったらしい。
七瀬は今も、過去の文献からあいつを救い出す手がかりがないか調べている。
阿門も捜索に尽力している。あいつの帰りを待ってるのは、俺だけじゃない。

芳しい結果は俺の耳には入ってこない。ただ無気力に、みんなが動いている間もこの屋上で、葉佩と出会った場所であいつをじっと待っている。探しても見つからないことが怖いんだ。いや、『もう二度と会えない』根拠を見つけてしまうことが恐ろしい。

いつか会える。帰ってくる。だってあいつは、そう約束をした。卒業式の後、伝えたいことがあると言った。俺はそれをまだ聞いてない。

「お願い、皆守くん。過去と心中しないで。このまま、潰されないで。痛々しくて見ていられないよ。……このままじゃ、私、九ちゃんのこと。大好きなのに、……恨みたくなる」
「……大丈夫だ、八千穂」

もう二度と大事な人を悲しませない。悲しませることはしない。葉佩に誓ったはずなのに、このザマだ。こいつに、ここまで言わせてしまう。己の脆さに嫌悪が沸く。

「ずっとじゃない。あと、少しだけだ。あと少しだけ、ここに居させてくれ。そうしたら、ちゃんと俺も前に進む。今はな、まだ――葉佩を待つ以外のことを、したくないんだ」

他の奴から見れば、哀れにすぎる痛々しい行為でも。俺にとっては、唯一の救いなんだ。果たされていない約束があるということは、言葉に縛られているということが。

「皆守くん……」

八千穂はそれしきり口を噤む。納得しようと努めているのがわかる。こいつも、いい奴だ。掛け値無しに善人だ。昔から、他クラスだろうが、自分と関係のない生徒だろうがお構いなしに気遣える奴だった。「九ちゃんが戻ってきたら、三人でマミーズに行こう。置いていったら嫌だよ」そう言って笑っていたのは、もう三年も前のことなのか。あれから、何度泣いたのか。ようやく、八千穂の恨みたくなるの気持ちがわかった。あいつに会わなければよかった――そんなことを、思いそうになってしまう。それもこれも、葉佩との三ヶ月が輝きすぎているからだ。だから、喪失感が凄まじい。他の何物にも、埋められないほどに。

「あと少しだけ、幸福な空想に耽らせてくれ」

心が軽くなる香りを吸い込んで、目蓋を降ろす。

ギイと立て付けの悪い扉が開いて、葉佩が転がるように屋上へ足を踏み入れる。逆光でその顔は見えない。それでも、何度も「ごめん」を繰り返すせいで、切羽詰った顔をしていることは想像がつく。遺跡が崩れて、しばらく大怪我してて。脱出口を奇跡的に見つけて。空想の中の葉佩は、ご都合主義な理由を並べる。俺は訝んだりしない。三年も待たせてごめんと泣きながら繰り返す葉佩に、「おかえり」と言ってやる。少しくらい、大人になったところを見せてやってもいい。それくらい、見栄を張ったっていい。すぐにばれるだろうが、せめて――再会の瞬間くらいは。想像力は逞しくない方だ。三つ年を取ったあいつはあまりうまく像を描けない。いつも瞼の下には、あの日俺を殴り、許し、去っていた顔がある。

「皆守くんが、可哀想だよ」

八千穂はポツリとこぼした。俺はそれを、そっと拾い上げる。

「お前にはそう見えてもな……今俺は、幸せなんだ」

ますます顔を歪める八千穂へ、俺は苦く笑うしかなかった。
長々と脳に写し出すのに事足りる思い出があって、未来への約束があって、待ち人が居る。
真実に目を瞑りさえすれば現状は幸福である――それは紛れもない真実だった。


一目だけでも会いたいと焦がれる胸中が、満たされる日が来ない覚悟はまだ出来ない。




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