JUST FOR YOU 3



覚醒して一番はじめに見たものは、点滅している階数表示の8だった。ひゅっと体の内側が浮き上がるような感覚を覚え、エレベータ内だとわかる。どこをどう歩いてきたのかわからず困惑する。背後の防犯目的の姿見にも、困り顔の自分がしっかりと映っている。

「起きてるか?もしもーし」

葉佩にぐいと腕を引かれ、瞬時に記憶がよみがえった。ああ自分が住んでいるマンションだ。学園がある新宿区からは、そう遠くない場所にある。自失していた時間は長くないなと安堵する。
たしかタクシーに乗って帰ってきたんだった。マンションの廊下を一列で歩く。五歩進んでようやく頭の中に響いた声は、過去の葉佩のものだ――「じゃあさあ、しようか」――聞いたときにまず思ったことは、する気があるのかという驚きだ。絶えず人との間に距離を置いて過ごしてきた俺には正しい人との付き合い方がわからない。
付き合いに模範解答なんざ、ないんだろうが。とにかく葉佩とは間違えたくなかった。これでいいのか、お前はそれでいいのかと詰め寄りたくなる。ただあの時には、「それも、いいかもな」とあっさり同意してしまったことが意外で、もしかしたら本心は望んでいたのかもしれない。
鬱々と考えた記憶はあるが、それ以後が編集機能で削除されたように、すっぽりと抜け落ちている。歩いて酔いが回ったことは間違いがない。

「鍵、鍵どこやったっけな」

葉佩まで、ほろ酔い状態みたいに動揺している。しきりに上着のポケットを探っていた。こんなセラミックキーくらい、三秒で開けられるだろうがお前は。呆れてもいいが、更にばかばかしいことに俺は葉佩がいつも自宅の鍵を仕舞う場所を覚えている――ジーンズの後ろのポケットだ。
こいつがこの鍵を使うことはあまりない。なのに、俺はそれを絶対に忘れたりしない。
教えてやろうと腕を掴んだ。しかし、あまりにも勢いが付きすぎたせいで、ドアに葉佩を押し付ける格好になる。

「わり、」
「いや」

冷たいアルミドアと自分の間に挟まれた葉佩は、平時よりも精悍に見えた。かすかに甘い花の匂いがする。それが、自分の匂いだと三拍ほどして気づく。それほど近いと意識してしまえば、心臓は一瞬で跳ね上げる。三年間契約用紙の上では同居してるが、実質一緒に居る時間は合計して天香の三ヶ月くらいのものだ。いつまで経ってもふいの接触に慣れない。いや、接触に入り込む邪心に慣れない。
血液が沸騰し、視界がぐんと濁っていく気がした。チラチラと、火花が咲く。

「立ったまま寝る気か?」

ずっとそのままでいたら、当然葉佩には不審がられる。頬をぱしぱしと叩かれた。痛くない接触は、とろりと甘い尾を引いた。

「もうちょっと、起きててくれよ。することがあるだろ?」

すること、すること。そのことについては、葉佩にしっかりと告白されてから何百回は考えた。そして何百回も杞憂に終わらされたことだ。今更、真剣に考えられなくなっている。
もたついていたのが嘘のように、ドアはあっさりと開いた。しかし、葉佩はなぜか体を横向けて入室する。どうやら積み上げられた新聞紙が邪魔をしているらしい。そういえば、留守中の情報後追いと調合に使うから捨てないでくれと言われていた物が溜まっていたんだ。俺は要らない物は即捨てたい、ため込みたくない派だから、新聞紙を一つ積み上げる度に苛ついていた。
でも、苛つきつつも。俺はけして新聞紙を勝手に捨てたりはしないんだ。帰る場所に利点を一つでも築き上げたい。せせこましい、浅ましい計算だ。
背後でカチャ、と扉の閉まる音がした。完全な暗闇に近くなるが、すぐに葉佩が灯りをつけるだろうと思い、靴を脱ぐ。しかし、葉佩の動きは鈍かった。スイッチをなかなか探し当てられないらしく、「っかしいな」と呻いている。明かりの位置も覚えられないほど、この部屋はこいつにとって馴染みがないものか、と勝手に傷つく。
けれど葉佩が、バシッと壁を叩く手を空振りさせ、がくんと倒れそうになった為に、慌てて体を抱き留めた。さきほど掴んだのは腕であったが、今度は咄嗟に腰に腕を回していた。昔よりも腕があまらなくなったな、と思う。鼻先に葉佩の髪がかかる。昔は良く、これに硝煙の匂いを嗅いだ。

「昔から、甲太郎にはフォローされっぱなしだな」
「……お前は隙が多いんだよ」
「何度こうやって、後ろからかばって貰ったかな」

懐かしむなよ。俺は今お前のすぐ傍にいるのに。……自分のことを棚上げしてしまうのは性分だ。
乾燥が始まる季節であるのに。雨が入り込んでいるような湿気が、お互いの匂いをその場に留まらせている気がする。空気がむっと、重くなっている。
葉佩は俺の手の上に自分の掌を重ねた。そして、くるりと振り返ると俺をたちまちに壁まで追い込む。
しっかりと正面から左手を握ったまま、右手を伸ばして壁に手をつく。左足を両足の間にすべりこまされた。自分の体をピンに見立て、俺を壁に縫い止めようとしているようだった。

「やっぱり、俺は甲ちゃんがいないと駄目だな」

暗闇だから、葉佩の表情がはっきり見えた訳ではない。
どんなニュアンスで言っているのかわからなければ、俺だって言葉を返せない。だから顔を近づける必要がある。酔った頭は無茶な理屈を持ち出し、脳はそれを可決した。が、葉佩の方が早かった。肝心なときは、いつだってこいつが先を行くんだ。

「……いいよな?」

耳朶に懇願を流し込まれる。いいと素直に言うにはまだ強固な石垣のようなプライドがあったし、よくないと嘘をつくには葉佩の体温は惜しすぎた。精一杯の承諾の証に、葉佩の頬に手を置く。まるでキスをする直前のようだと思った。思ってしまえば、もう止められなかった。とっくに鼻先がつくほどの至近距離だ。完遂はたやすい。キスならさっきバーでもしたし、三年間を振り返れば何十回としている。
でもゆっくりと合わさって離れる仕草は、まるでこれがはじめてのようだった。それくらいに、お互いがこの先の行為へ欲望を持ってするのでは、期待感と渇望の度合いが違いすぎる。いいよな、と葉佩の声がもう一度した。もしかしたら、それはただ俺が思い返した反芻だったかもしれない。
他の奴と自分に、お前の中で決定的な違いが生まれるなら。
それはどんな間違った手順であろうと快感に相違ない――という期待に胸が沸いた。









「んん」

皆守のくぐもった呻き声を自分の口の中だけに収めることに成功する。唇をすべて呑むことが巧くいき満足した。しかし欲求がひとつ満たされれば、足りない部分が気になりだす。どうしたって隙間が出来上がることが気に入らない。俺は皆守の乾いた唇の表面を舐める。かすかにアルコールの苦みを味嚢が伝える。店を出てからもう、随分経っている。それは錯覚であったかもしれない。
ああ、これは体を熱くする目的のあるキスだ。動転していた頭が落ち着きを取り戻すが、だからといって興奮は去らない。

「……っ」

舌を繰り込むと、ますます酒気を帯びた息がかかる。しっかり飲んでたんだなと確認する。ぬめりと熱い口内に簡単に侵入できたことに警鐘が鳴るが、俺は必死に聞こえないふりをした。すぐには失えない気持ちの良さだった。玄関口で、と後で殴られるかもしれない、罵られるかもしれない。そういった常識的な思考が阻まれている。ただただ、皆守とキスをしているという状況に体温が上昇する。長いキスは、なあお前、ちゃんとわかってるよなと確認しているつもりだった。この後のことを、止まれなくなる衝動を理解して貰えてなければ今が拷問に変わる。
皆守が遅すぎる抵抗を示した。身体の間で折り曲がっていた腕を、つっぱらせようとする。俺を我に返らせるタイミングを教える為、そんな微々た抗いだった。俺は暗闇の中でぎゅっと皆守の手を握る。たったそれだけのことで、身体の操縦権まで握ることができた。どん、と皆守の背中が壁に当たる。さっき脱いだばかりの靴が散らかった。

「ん、んん……っ」

息づかいと水音と心音。ぜんぶが混ざり合って、身体が中から爆ぜてしまいそうだった。自然に角度がつき、意識せずなんども唇を合わせ直す。顔が離れた瞬間に目があった。俺は疚しさをようやく覚える。感情に打算や欲情が付いてくれば、それは真水のように澄んでいた想いではなくなる。
皆守をどう思えばいいのか解らなくなる瞬間は多々ある。
友情の方がもっと堂々と好きでいられるなら、もっと近くなれるなら、それでもいいと思うことも多い。でも親友に出来ないことをしている時の方が近づけるなら、越えるべき壁も溝も打ち壊してしまえる。何か言いたいのに、熱が籠もりすぎてなんにも声にならない。皆守の瞳は濡れて光っていた。欲が覗いている、と思うのは都合良く見過ぎているだろうか。乱暴に存念をまとめ上げて、俺はもう一度顔を寄せた。
僅かな光を集めている瞳が、見えなくなったのは皆守が目を瞑ったからだ。何かしようとしている相手を前に、視界を閉ざす。これほど、好きにしていいのジェスチャーとして正しいものはないだろう。見えなければ、対処はどうしたって遅れる。なのに彼はそれをした。
許されている、という実感が体をますます熱くさせる。
キスばかりに深くのめり込みすぎないように。舌を絡めれば意識をすべて持っていかれそうになるぬめりを皮膚の表面上に留める。かわりに、両指は忙しなく動いた。
皆守のシャツを下から丁寧に脱がせていく。ボタン穴さえも身体の一部であるように、慎重にボタンをくぐらせた。ひとつひとつ、クリアするごとに愉悦が起こったが、逆に皆守は明らかに焦れていた。無気力なくせに、気は短いんだよな――俺はこっそりと笑う。ばさりと、上着が廊下へ放られる音と、ベルトのバックルの外れる音。
俺は腕が引き抜かれる衣擦れの音に怯みそうになった。しかし、見透かしたようにきつく睨みあげられ、皆守の両掌が自分の頬を包み、鼻がぶつかるほど乱暴に口づけられれば霧散する程度の怯えだった。気持ちよさが漏れてる、みたいな皆守の声にぞくぞくとする。

「は、ぁ、……はっ」

俺は積極的に、今度は口内を蹂躙することも手を抜かず、お互いの身体を探り合った。辛うじて童貞ではないというだけで、どこをどうすれば高められるのか、知り尽くしているわけではない。三年間奥手なことにたった一人に手をこまねいていたブランクは大きそうだ。ましてや同性だしな。でも結局、セックスってテクニックよりも丁寧さが物を言うものだ。時間をかけるのも、優しくするのは好きだから、そのへんは問題ないはずだ。今にも膝が崩れそうな皆守の体を抱き寄せる。

「なあ、甲太郎。ベッドまで歩けるか?」
「……お前が一緒ならな」

視線と台詞、いったいどちらに胸を貫かれたのか解らなかった。







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