JUST FOR YOU 2



CLOSEの札なんかお構いなしに、バー『カオルーン』の扉を開く。学生時代は気後れしたシックな雰囲気も、二十一となった今ではとっくに乗り越えている。お馴染みのジャズピアノのBGMは消されていて、店内はしんと静まっている。カウンターに突っ伏して眠っている皆守と、どこにも曇り一つないグラスを更に磨き上げている老紳士の姿しかない。

「お久しぶりですね、九龍くん」
「千貫さん!どうもうちの甲太郎がお世話になって……」
「構わないんですよ。お代はしっかり頂いていますし、それに坊ちゃまのお友達もついにお酒をお出しできる年頃かと思うと爺は――」
「あーはい。その話はまた明日にでも聞きにきますから」

話の腰を折るときは、一刀両断にスパッと。でないと朝まで阿門のゆりかごから現在に至る経緯を蕩々と語られることになる。
どうせ起こす気なのに、俺はそうっと静かに皆守の隣に座った。
腕を枕にして、顔はカウンターの大理石を向いている。なにしろ一緒に暮らしているので、皆守の寝顔なんて見慣れている――はずなのに、今夜は無性に見たくなった。そんなに寝たけりゃ、俺の腕を枕にして眠ればいいのに。

「甲、」

小さく呼びかけて、肩をそうっと揺する。皆守は寝つきもよければ、寝起きもいい。二、三度声をかけるとゆっくりと顔がこちらを向いた。もしかして寝たふりかと思うほどしっかりした顔つきをしている。視線が合うと、どうしても俺は笑いかけそうになる。が、ここは心を鬼にするところだ。甘やかしてばかりいてもいけない。

「帰るぞ」

厳しくも、甘くもならないように平坦な発音でそう言うと、皆守が一瞬痛みを堪えるような表情をした。

「九龍」

そして、支えを求めるように俺に全身を預けてくる。回転式のチェアには背もたれがない。二人して転落しないよう、重心は前気味にしっかりと皆守の体を受け止めた。探索から帰宅して即喧嘩して今に至る――久しぶりの皆守の体温はやけに熱く感じる。アルコールのせいか、眠いせいか。力が入っていない身体はだらんとして重い。

「来るのが遅い」
「……悪い」

行き先も告げずに出て行ったのはお前だろ。それにたった二日だぞ。そう思うのに、口をついて出たのは謝罪だった。なんだか――記憶はないが、そうなるように日頃から徹底的に調教されてる可能性が濃厚だ。
ぼやいたきり皆守は黙り込む。まさかまた眠る気なんじゃないかと自分の腕の中を覗き込もうとするけど、バランスを崩して皆守を落としてしまいそうで上手くいかない。でっかい猫だとか赤ん坊だとか、そんなものを抱いている気持ちだ。意思の疎通ができない、でも愛らしい――そういう存在を。
皆守は俺の肩口に静かに持たれかかっている。予想では迎えに行っても、「帰れ」か「顔も見たくない」と言われると思ってた俺はホッと胸を撫で下ろす。もう怒ってはいないようだ。
他にすることもなく、手持ち無沙汰だ。安心ついでに皆守の髪の中に指を入れてみる。じっとしてるのは性に合わない。服の中に手を入れる瞬間よりも、むしろ気分は高揚する。皆守の毛質は柔らかいが丸まっていて、指どおりはあまりよくない。こいつの髪を触るのは、いつも気が立っている猫のお腹の毛を撫でているようなスリルがある。いつ爪を立てられるかわからない。
そんなことを考えてるのがばれたはずもないが、皆守は頭を振って俺の手を払った。

「……あの女子高で、何校目だ?《転校生》」

《転校生》は完全に嫌味だ。怒ってはいなくても、機嫌はよろしくないようだ。
俺は嘆息する。こういうときは正直が一番だ。

「八校め、かな。いや、天香含んだら九校目」

皆守の、だらんと伸びていた腕がゆっくりと背中に回される。あれ、機嫌いいのか?と思っていると、少し痛いくらいの力で背中をつねられた。

「女子高は楽しかったか?葉佩先生」
「は、……ハハハ」

笑うしかない。皆守も意地悪く笑っているんだろう。そう思ったが、顔を上げた皆守の瞳孔は不安にゆらりと揺れていた。

「なあ、九龍。お前はもう、何人の生徒を救ってきた?何十人、何百人か?」

両頬を、熱くなっている皆守の掌に包まれる。はぐらかしたり、逃げの台詞が常套句なこいつらしくない。顔を、皆守から外せなくされた。真剣な答えが要求されている。俺はまっすぐ視線を返した。

「甲太郎、そういうのは数じゃない。何人でも関係ないよ。みんな俺の仲間だ」

皆守の表情が泣きそうなものに変わる。悲しいと言うより、悔しさを堪えている種類のものだ。こういう、こいつの不完全で未熟なところが好きだな、とふいに思った。欠けてる部分を埋めてやりたい欲求が沸く。

「……わかってんだ。お前はまた、どこか俺の知らないところでヒーローになってきたんだろ」

自問に近そうだったので、俺は答えなかった。それに多少傲岸な自覚はあるが、さすがに誰かの英雄になってきましたと豪語は出来ない。そんな器じゃない。俺はいつも自分のすべき仕事をしてきただけで、結果は狙った物でも計算した物でもない。人の縁も宝だと思う。俺は宝を引き当てる運に恵まれている。偶然を嫌う皆守にはあまり、この話は信じて貰えないけど。
変わりに千貫さんに目配せする。アイコンタクトを的確に理解したロマンスグレーの執事は、一礼して奥へ去ってくれた。まったく、有能で腕が立って気配りもできるなんて凄い人だ。あんな人が身近にいる阿門が心底うらやましい。
と、皆守にぐいと顔を合わせられる。俺だけみていろと言わんばかりの力だ。

「お前が日本中の遺跡を開放するたび、不安になる。俺みたいな奴を何十、何百と救って……お前の中で俺はどんどん薄れていくんじゃないかって」

どん、と胸を叩かれる。拳よりも言葉が心に響いた。どうしようもないやつだ、と呆れるところかもしれない。なのに俺は胸をぐっと締め付けられる。皆守の黒目の輪郭が揺らぐ。その顔はやめてくれ、と両手を挙げて無条件に降伏したい。

「俺にはお前しかいないってのに」
「甲太郎、」

前髪が首筋にこすりつけられる。俺はやっと、大事なことに気づいた。
皆守の吐く息は熱いがちっとも酒臭くない。酔ったフリをしなきゃ寄りかかれない、弱い部分も吐露できない――皆守はそういう男だ。俺はたまらずに皆守の体を抱いた。カウンター席の間隔は狭い。それでも、もっと近くていいのにと思った。

「確かにこの三年で友達は増えたよ。でも、一緒に暮らしてるのはお前だけだろ。特別な約束をしたのは甲太郎だけだ。薄れたりなんかしない」
「……お前はそういうが、」
「俺が言ってることが全部だから、他の何を聞いたって考えたって無駄だろ」

碌な事をしゃべらない。皆守の口をそのまま塞ぐ。咥内にはかすかにアルコールの苦みが残っていた。口の中をぜんぶ舐め取るつもりで角度をつける。皆守は応えようともせず、ただ抵抗もしなかった。ぬめぬめとした舌が絡まってくれないことが不満だったが、時折「はっ、」と呼気がこぼれるのがたまらない。
キスをする前でもなく、している最中でもなく、顔を離すときが一番照れるものだ。俺は空気を茶化したくなった。

「いくらなんでも、かたっぱしからこういうことはしないよ俺も」
「……どうだかな」
「おい、……本気で疑ってないよな?」
「どうだかな」

ようやく皆守の緊張が解けたようだった。くっ、と息が抜けたように笑う。皆守に笑われると、俺はとことんまで弱くなる。有り体に言えばしたくなる。何だってしてやりたくなる。好きな相手の笑顔なんだ無理もない。

「なあ、もうちょい」

我ながらもっと上手く招けないものかと苦々しく思いつつ、皆守のこめかみの上に手を差し入れる。ほんのすこしだって力を込める必要もなく、顔は近づいた。――のに、もうすこしで唇が触れる距離で止められる。

「万が一の話だ……なあ、九龍」
「な、なに」
「他の奴ともし、お前がこういうことをしてたら……パイプカットしかないと思わないか?」

皆守の真顔を間近で見つめる。怖くて瞬きさえ出来ない。パイプカットには異なるふたつの意味がある。禁煙か、輸精管を人工的に切断する手術。冷えた視線が後者だと大声で告げている。

「……きょ、去勢!?」
「俺だけなんだろ?慌てる必要はないよな」
「ま、まあそうだけど」

本気度が五割を超えていそうな真剣な声音に心底震えあがる。

「わかればいいんだ」

物騒な脅しをかけてきた口で、可愛らしく触れるだけのキスをされた。この高低差はテクニックかもしれない。

「甲ちゃん、俺とできなくなってもいいのかよ」
「したことなんざないからな。いいも悪いもない」
「じゃあさあ、しようか」

気軽さを装って、服の上から体の外側のラインを撫で上げる。もう秋も終わりの頃で薄着ではないのが悔やまれるところだ。でも考えようによっては、寒さを意識しはじめる季節は仲を深めていた天香を彷彿とさせ、懐かしさが寂寥感を催す。ついでに、人恋しさも。

「……それも……いいかもな」

いつもの曖昧さをどこに置いてきたんだよ。俺に軽口を叩く隙さえあたえない。皆守は立ち上がって、座ったままの俺の髪を掴んだ。無理矢理にも程がある強引さで、頭を上げさせられる。そんなことされなくたって、姿を追って視界は上向いていたのに。
皆守は自分からキスをするとき、意外なことにかなり荒っぽい。咽喉までかき回す気か、というほどに深く舌が入ってきて歯が当たる。ひっこめようとした舌はあっさり捕まって、やんわりと噛まれる。唇の裏側をなぞられるのが皆守は好きだし、俺は顎の裏側が弱い。戦術的に弱いところは狙い撃ちされると相場が決まっている。体勢的に二人分の唾液を受け止める位置だが、皆守が余裕を根こそぎ奪っていくせいで、ごくんと喉を上下する間を与えられない。口の端を伝ったぬめりは、洞察力に優れている相手に「おっと」と舐め取られた。ふっと得意げに笑われたが、むかつくよりも見とれてしまう。どうあったって惚れた弱みだ。

「……ペース返せ」
「九ちゃん次第だな」

いっそ胸ぐらを掴んで引き寄せようか。そんなことを思っていると、カウンターの奥から足音が向かっていることに気づいた。
千貫さんは普段は静かに歩く人だ。つまり、わざわざ音をさせて、俺たちに気を遣っているということだ。何をしてても気づくように。まったく頭が下がる。人の職場で不埒なことをしてたことにも反省。これじゃあ、いつまでたってもマスターは店を仕舞えない。

「九龍くん、皆守さん。阿門様が屋敷に部屋を用意してくださるようです」
「何から何まですみません」

ぺこりと頭を下げる。つい数十秒前まで本気で没頭してた行為のせいで、毅然とした紳士と向き合うのは妙に気恥ずかしい。

「ああ、でも。お二人にひとつ忠告が。もしもですが、お二人が――」

マスターは氷を砕く用(そうだと思いたい)のアイスピックを片手に、玄人然とした裏のある笑顔を作り上げる。

「神聖にて静謐な阿門邸をラブホテル代わりにすることがあれば、今宵爺は修羅と化します」

薄く開いた瞳からは羅刹の色が垣間見える。

「「タクシーで帰ります。お邪魔しました」」

俺と皆守の発言は、一言一句違わなかった。






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